東京の都心から西北、埼玉県新座市に臨済宗専門道場の平林禅寺がある。広大な境内は武蔵野の雑木林を残し、国の天然記念物に指定されている。
正面の山門左脇に半僧坊権現をまつる御堂がある。大正六年ごろ、山岡鉄舟晩年の高弟小倉鉄樹先生がこの堂守をしていた。禅宗では、修行後、世間から隠棲いんせいして静かに悟り後の仕上げに入ることを『聖胎長養せいたいちょうよう』という。鉄樹先生もそうした生活に入っていた。五十二歳である。

井上正鐵先生

当時の平林寺へいりんじの住職は、後に京都の大本山妙心寺の管長となった峯尾大休老師である。江戸文学の泰斗三田村鳶魚みたむらえんぎょ先生も大休老師に参禅していた縁で、平林寺で鳶魚・鉄樹両先生の交際がはじまり、やがて終生の知己となる。

この時代、禊教会の道場は、東京、牛込河田町の本庄子爵邸内にあったが、一、二年を経て中野区打越町に移った。現在のJR中央線中野駅の近くである。『みそぎ』といっても水をかぶるわけではなく、『吐菩加美依身多女とほかみえみため』という祝詞の言葉を力強く、繰り返し唱え続ける行で、仏教にも似たような念仏修行がある。
この行を受けた先生は、一声一声、必死に「トホカミ、エミタメ」と絶叫するうち、若き日、山岡鉄舟先生の春風館道場で裂帛れっぱくの気合を込めて剣道に励んだ、あの烈しい稽古を思い出したことであろう。かねてから有為の青年を育てたいと念願していた先生には、この禊こそ今の青年を鍛練する最も良い方法だと確信されたことと思う。
当時、平林寺には、第一高等学校、東京帝国大学(いずれも旧制、現東京大学)の学生が坐禅のため通ってきた。連中は東京の本郷から二十五キロの道を一日がかりで歩いてくる。その中に帝大工学部の永井了吉という学生がいた。
暇があると半僧坊の堂守の部屋にきて、鉄樹先生の話を聞くことを楽しみにしていた。先生も見所のある青年と思って可愛がっていた。ある日、鉄樹先生と鳶魚先生から、「牛の糞をつくねたように、ただすわっていて何になる。君ら若い学生にもってこいの修行がある。そこで、くたばるまで『行』をやってみんか」と言われる。大正七年、永井了吉、大学二年の時である。こうして永井青年は、一九会いちくかい道場の誕生ともなる第一歩を踏み出したのである。
永井青年は工科のボートの選手であるが、学内対抗レースでは工科が勝ったことがなかった。禊修行を受けた永井青年は、これはいいとばかり、仲間のボート選手を誘って『みそぎ』をやらせる。その年の学内対抗ボートレースではみごと、工科のクルーが優勝してしまう。以来、『みそぎ』をするとボートが強くなるという伝説が生まれ、都下の各大学のボート選手が相次いで修行を受けるようになった。勿論、坐禅の公案もどんどん透った、とは永井さんの話である。

小倉鐵樹先生

 このころ、月に一度は教会に集って、小倉先生を中心に禊修行をしようということになり、先生の都合でその日を十九日と決めた。一九会いちくかいという名のいわれである。
さて、ボート選手というのは大男と決まっている。お念仏を唱えるようにトホカミエミタメと唱えては法悦に浸っている善男善女の教会で、その荒くれ男が鉄樹先生を中心に、先達の先輩の辛辣しんらつ鞭撻べんたつで命がけの猛修行をするのだから、たまったものではない。教会の信者たちはその烈しさに恐れをなして、ついに排斥運動にまでなった。大正十年である。そこで、永井さんの後輩の帝大の学生達は、「俺達でこの際、誰に遠慮もなく思う存分修行のできる道場を建設しよう」と決意した。そして、帝大の学生等が中心になって、東都の学生にげきを飛ばしてその賛同を得ようと、『道場建設の趣意』というものを書いた。少々長文であるが、当時の純粋な情熱の高鳴りを目の当たりに見るようなので全文紹介しよう。
ー道場建設の趣意ー
わが『みそぎ修行』は、『まこと』を求めて『純』ならんとする我等の捨身の苦行である。我等が本然の自我、本物の人間を鍛え出さんとして、自らの身を鉄床かなとこの上に投げ出しての荒行である。
我等の力をためすために、全身全霊ぜんれいをもってする実修である。
現代は、思想は混乱し、青年は踏み迷っている。みそぎ修行は、これらのすべてを解決してくれないかも知れないが、少なくも我等青年が混迷から脱する出口は教えてくれるものと信じている。現代は、物質生活も精神生活も、あまりにも複雑化し仮面と殻を作りすぎた。多くの者はこの中で苦しんでいる。
みそぎ修行は、この複雑化した物心両面の生活を、自然本来のものに単純化し還元するに極めて妙な効果をあらわす修行である。我等はいまこそ、すっぱだかになって、これに飛び込み、人間をむき出しにしたいのである。
我等有志はすでに一九会という同志組織をつくり、麦めしと味噌、たくあんの単純食で毎月数日を共に暮し、トホカミエミタメというみそぎのはらい言葉を吐血の思いをなして絶叫し、その妙味を体験している。
みそぎ修行で、根尽こんつき息絶えるまでに到った時、満座の修行者のことごとくが感奮感激して、相抱いて泣くとき、『まこと』の泉が油然と湧き上るのを覚える。これはみそぎ修行によってのみ味得できる体験である。いまやわが一九会は、この行を修せんための一道場を建設しようと計画した。我々は金銭的には極めて無力な学生であることを知っている。しかし我々が何物にも負けない熱意を結集すれば、この計画は必ず成功するものと信じている。天下の学生諸君よ!この計画に進んで賛同されたい。
 大正十一年五月、東京都豊多摩郡野方村に敷地五百坪(約一、六五〇平方メートル)を借りて、建坪五十坪(約一六五平方メートル)の道場がついに建設された。学生たちの手になったとはいうものの、なかなか容易なことではなく、結局は親威の援助を受けるということになったが、運動の主体はあくまでも学生であり、その情熱であった。

日野鐵叟先生と奥様

 かくして平林寺から鉄樹先生をお迎えして、ここに名実ともに一九会道場が誕生したわけである。こうして大正十一年は、道場創立の元年となった。禊と坐禅を車の両輪のようにして、人間を鍛えようというのが鉄樹先生の念願であった。創立当時、平林禅寺の大休老師をお招きして坐禅も行なっていたが、機縁熟せず自然消滅の形になっていたが、昭和二年、小倉鉄樹、石津無得、日野鉄叟の三先生が中心となって、中断していた坐禅を併修することが決まった。
初代の師家として拝請したのは、東京・品川東海禅寺住職太田晦巌まいがん老師。鎌倉・円覚寺管長を経て京都・大徳寺管長となり、終戦直後遷化されたが、まことに厳しい老師で、接心修行も烈しかった。
晦巌老師遷化後、平林禅寺白水敬山老師を仰ぎ、三十年にわたって懇篤な鉗鎚かんついをうけ、敬山老師示寂後は、同じく平林禅寺の糸原圓應老師、野々村玄龍老師に引き継がれて今日に到っている。
昭和九年、鉄樹先生の古稀(七十歳)を祝って、門弟たちが北鎌倉浄智寺山内に草庵を建立、鉄樹庵と名付けて先生に贈った。先生はこれより、中野の道場を日野先生御夫妻に委せて、鉄樹庵に隠棲され、昭和十九年四月一日、病を得て逝去、浄智寺に葬られる。
さて、一九会道場は、会員も多くなってきたので、昭和十四年、社団法人とし、翌十五年、従来の借地を道友篤志家百余名の拠金によって買収した。
昭和三十八年十二月、木造の旧道場も次第に手狭となり、修行上にも支障が生じてきたため、東京都東久留米市前沢三丁目四番十の現在地に約一千坪(約三、三〇〇平方メートル)の土地を購入し、翌三十九年十月鉄筋コンクリート二階建てを含む近代的道場が落成した。一階は禊道場、二階は坐禅堂である。木造の旧道場は先輩辛苦の記念の建物であるため、解体して移築、修行に集う会員の宿棟とした。新道場の総建坪は二百四十坪(約七九二平方メートル)である。
禊と禅による人間鍛錬の真摯しんしな修行はしだいに共感を集め、会員も増えてきたが、さらに一段と飛躍して、その修行を深めるためには、信仰にまで高めなくてはならないという考えが強まってきた。即ち「敬神、崇仏の精神から神心、仏心は一如で、万有一元の信仰に立たなくてはならない」というのである。こうして、昭和五十九年、社団法人を解散して、宗教法人一九会道場が発足した。
道場も外観こそ木造平家建から鉄筋コンクリート二階建の近代建築に変わったが、創立当時の鉄樹先生が掲げた、山岡道場の精神はそのまま受け継がれ、巌しい『古道場』の姿を今に伝え、道場長の指導のもと、一層の精彩を加え、清貧・自足に徹し、ひたすら修行一筋の道を守りつづけている。
このため道場の維持運営は、発足当時から全く変わらず、会員のわずかな護持会費で充て、禊・坐禅の修行は、それぞれ修行参加者の実費負担で賄い、道場長はじめ役員一同は一切無報酬で奉仕している。このようにして、道場の歴史は、大震災後のわが国の興隆と激動の時代と期を一にしており、多くの有為の人材を社会の各方面に送り出し、それぞれ活躍している。
最後に、先輩たちが心の拠所きょしょとしてきた禊修行の心得とも言うべき『垂示すいじ』を付記して終わりとする。
 
 
吾が是の美曾岐みそぎは生死脱得の修行なれば、勇猛心を奮起し、
喪身失命を避けず、一声一声まさに吐血の思をなして喝破すベし
いやしく左顧右眄さこうべんいたずら嬌音きょうおんろうして
他の清衆の修行を妨ぐることなかれ  至嘱々々

東久留米移転当時の道場とその周辺