ご挨拶

一九会道場は、大正11年に学生達が「本物の人間をつくる道場を作ろう」という熱い思いで創建し、血と汗で築き上げてきた道場です。
以来一世紀が過ぎようとしていますが現在も創建時と変わらぬ厳しい修行に明け暮れています。
人間生まれてきたときは純一無雑ですが、20年、30年も経つと外界の因縁を受けて自分を汚してきている。それを洗い落とそうというのがこの修行の眼目です。
今では忘れられてしまった「誠一つに至る」ところを身をもって体得する修行です。それでこそ立派な人生を歩む事が出来るのです。修行というのはどんな修行も本物は一つです。本物をつかむための禊修行であり座禅修行です。
「天地と自己と一体」であることを身をもって知るために修行するのです。
デーンと座ったものをしっかりと掴んで人生の70年80年を歩んでいく。
時代が変わっても一九会の修行は少しも変わっていません。
変化の激しい現代に変わらないものがあっても不思議ではありません。時代の変化に流されず、しっかりと自分を磨いて激流を乗り切っていくことができる修行をするのです。
特に若い青年諸君には禊修行はうってつけの修行です。
一九会は何処の団体の傘下にも入っていません。孤峰聳立。いまだに創建時の気風を受け継いで現在に至っています。

一九会道場 道場長 加藤高敏

道場の歩み

井上正鐵先生

東京の都心から西北、埼玉県新座市に臨済宗専門道場の平林禅寺がある。広大な境内は武蔵野の雑木林を残し、国の天然記念物に指定されている。
正面の山門左脇に半僧坊権現をまつる御堂がある。大正六年ごろ、山岡鉄舟晩年の高弟小倉鉄樹先生がこの堂守をしていた。禅宗では、修行後、世間から隠棲いんせいして静かに悟り後の仕上げに入ることを『聖胎長養せいたいちょうよう』という。鉄樹先生もそうした生活に入っていた。五十二歳である。

このころ、月に一度は教会に集って、小倉先生を中心に禊修行をしようということになり、先生の都合でその日を十九日と決めた。一九会いちくかいという名のいわれである。
さて、ボート選手というのは大男と決まっている。お念仏を唱えるようにトホカミエミタメと唱えては法悦に浸っている善男善女の教会で、その荒くれ男が鉄樹先生を中心に、先達の先輩の辛辣しんらつ鞭撻べんたつで命がけの猛修行をするのだから、たまったものではない。教会の信者たちはその烈しさに恐れをなして、ついに排斥運動にまでなった。大正十年である。そこで、永井さんの後輩の帝大の学生達は、「俺達でこの際、誰に遠慮もなく思う存分修行のできる道場を建設しよう」と決意した。そして、帝大の学生等が中心になって、東都の学生にげきを飛ばしてその賛同を得ようと、『道場建設の趣意』というものを書いた。少々長文であるが、当時の純粋な情熱の高鳴りを目の当たりに見るようなので全文紹介しよう。

小倉鐵樹先生

道場建設の趣意

わが『みそぎ修行』は、『まこと』を求めて『純』ならんとする我等の捨身の苦行である。我等が本然の自我、本物の人間を鍛え出さんとして、自らの身を鉄床かなとこの上に投げ出しての荒行である。
我等の力をためすために、全身全霊ぜんれいをもってする実修である。
現代は、思想は混乱し、青年は踏み迷っている。みそぎ修行は、これらのすべてを解決してくれないかも知れないが、少なくも我等青年が混迷から脱する出口は教えてくれるものと信じている。現代は、物質生活も精神生活も、あまりにも複雑化し仮面と殻を作りすぎた。多くの者はこの中で苦しんでいる。
みそぎ修行は、この複雑化した物心両面の生活を、自然本来のものに単純化し還元するに極めて妙な効果をあらわす修行である。我等はいまこそ、すっぱだかになって、これに飛び込み、人間をむき出しにしたいのである。
我等有志はすでに一九会という同志組織をつくり、麦めしと味噌、たくあんの単純食で毎月数日を共に暮し、トホカミエミタメというみそぎのはらい言葉を吐血の思いをなして絶叫し、その妙味を体験している。
みそぎ修行で、根尽こんつき息絶えるまでに到った時、満座の修行者のことごとくが感奮感激して、相抱いて泣くとき、『まこと』の泉が油然と湧き上るのを覚える。これはみそぎ修行によってのみ味得できる体験である。いまやわが一九会は、この行を修せんための一道場を建設しようと計画した。我々は金銭的には極めて無力な学生であることを知っている。しかし我々が何物にも負けない熱意を結集すれば、この計画は必ず成功するものと信じている。天下の学生諸君よ!この計画に進んで賛同されたい。

大正十一年五月、東京都豊多摩郡野方村に敷地五百坪(約一、六五〇平方メートル)を借りて、建坪五十坪(約一六五平方メートル)の道場がついに建設された。学生たちの手になったとはいうものの、なかなか容易なことではなく、結局は親威の援助を受けるということになったが、運動の主体はあくまでも学生であり、その情熱であった。

日野鐵叟先生と奥様

かくして平林寺から鉄樹先生をお迎えして、ここに名実ともに一九会道場が誕生したわけである。こうして大正十一年は、道場創立の元年となった。禊と坐禅を車の両輪のようにして、人間を鍛えようというのが鉄樹先生の念願であった。創立当時、平林禅寺の大休老師をお招きして坐禅も行なっていたが、機縁熟せず自然消滅の形になっていたが、昭和二年、小倉鉄樹、石津無得、日野鉄叟の三先生が中心となって、中断していた坐禅を併修することが決まった。
初代の師家として拝請したのは、東京・品川東海禅寺住職太田晦巌まいがん老師。鎌倉・円覚寺管長を経て京都・大徳寺管長となり、終戦直後遷化されたが、まことに厳しい老師で、接心修行も烈しかった。
晦巌老師遷化後、平林禅寺白水敬山老師を仰ぎ、三十年にわたって懇篤な鉗鎚かんついをうけ、敬山老師示寂後は、同じく平林禅寺の糸原圓應老師、野々村玄龍老師に引き継がれて今日に到っている。
昭和九年、鉄樹先生の古稀(七十歳)を祝って、門弟たちが北鎌倉浄智寺山内に草庵を建立、鉄樹庵と名付けて先生に贈った。先生はこれより、中野の道場を日野先生御夫妻に委せて、鉄樹庵に隠棲され、昭和十九年四月一日、病を得て逝去、浄智寺に葬られる。
さて、一九会道場は、会員も多くなってきたので、昭和十四年、社団法人とし、翌十五年、従来の借地を道友篤志家百余名の拠金によって買収した。
昭和三十八年十二月、木造の旧道場も次第に手狭となり、修行上にも支障が生じてきたため、東京都東久留米市前沢三丁目四番十の現在地に約一千坪(約三、三〇〇平方メートル)の土地を購入し、翌三十九年十月鉄筋コンクリート二階建てを含む近代的道場が落成した。一階は禊道場、二階は坐禅堂である。木造の旧道場は先輩辛苦の記念の建物であるため、解体して移築、修行に集う会員の宿棟とした。新道場の総建坪は二百四十坪(約七九二平方メートル)である。
禊と禅による人間鍛錬の真摯しんしな修行はしだいに共感を集め、会員も増えてきたが、さらに一段と飛躍して、その修行を深めるためには、信仰にまで高めなくてはならないという考えが強まってきた。即ち「敬神、崇仏の精神から神心、仏心は一如で、万有一元の信仰に立たなくてはならない」というのである。こうして、昭和五十九年、社団法人を解散して、宗教法人一九会道場が発足した。
道場も外観こそ木造平家建から鉄筋コンクリート二階建の近代建築に変わったが、創立当時の鉄樹先生が掲げた、山岡道場の精神はそのまま受け継がれ、巌しい『古道場』の姿を今に伝え、道場長の指導のもと、一層の精彩を加え、清貧・自足に徹し、ひたすら修行一筋の道を守りつづけている。
このため道場の維持運営は、発足当時から全く変わらず、会員のわずかな護持会費で充て、禊・坐禅の修行は、それぞれ修行参加者の実費負担で賄い、道場長はじめ役員一同は一切無報酬で奉仕している。このようにして、道場の歴史は、大震災後のわが国の興隆と激動の時代と期を一にしており、多くの有為の人材を社会の各方面に送り出し、それぞれ活躍している。
最後に、先輩たちが心の拠所きょしょとしてきた禊修行の心得とも言うべき『垂示すいじ』を付記して終わりとする。

東久留米移転当時の道場とその周辺

吾が是の美曾岐みそぎは生死脱得の修行なれば、勇猛心を奮起し、
喪身失命を避けず、一声一声まさに吐血の思をなして喝破すベし
いやしく左顧右眄さこうべんいたずら嬌音きょうおんろうして
他の清衆の修行を妨ぐることなかれ  至嘱々々